そろそろ受験シーズンになってきましたね。
私も今年は平成28年度春期試験のうち「情報セキュリティマネジメント試験」を受験しようかと考えています。(平成28年度春期試験は1月18日から受付開始です。)
受験論という考え方、それなりにテレビに露出していますよね。
時期的に大学や高校の入試シーズンだからだと思います。
番組で討論します、という形式の番組は月一回くらいはやっているように見受けられます。
これに対する批判とか共演する芸能人が反論するタテツケの番組とかでちょっと思うところがあったのでま、ちょっと聞いてください。
結論から述べます
家庭内でも合理化をするかどうか、につきるとおもいます。
要するにビジネスの現場で実施するマネジメントを家庭内に持ち込んで、ドライに合理的な方法を家庭内でも実践するかどうか、ということなのです。
この話題の著者の方は、受験に合格するかどうか、を一番の価値観にして、それに対する無駄をすべて省くとともに、日常の生活を「受験に合格することに資するかどうか」という点で取捨選択して自らの行動を設定しているに過ぎないのですね。
ここに、家族の”感情的な部分”とか、家庭内の”あたたかさ”とか”人情・温情”というのは優先順位としては下がってしまいます。(ここではその是非は問いません。)
合理化すると…
家庭内で合理化する、という点に違和感が出てしまうのだと思うのです。
で批判する人からすれば、「家庭内でそんなドライな考え方を持ち込んで…。」という想いが先立ってしまうのではないでしょうか?
で、これに反論する芸能人や評論家の方々は合理化して受験に合格することだけにすべての価値観を置く、という点に対して「なんか違うよね?」という反論をされておられるように見受けられます。これって議論が同じスタート地点に立っていないんじゃないでしょうか?
ビジネスの現場でもよくありますよね?
合理化目的の会社の施策に対して、現場の社員が「いままでこうだったからやりにくい。」とか「そんなやり方には承服できない。」という反発を招く、よくあるシチュエーションです。
会社はコスト削減や将来に向けた業務の定型化などといった目的によって何かしらを合理化したいからやり方を変えたい、現場は新しいことを覚えることを強要され自分の手間が増えるとかミスが発生しやすくなることに対して(ミスは現場の責任になるから)現状維持を望む、互いが互いの利を主張しあうだけでちっとも議論が進まないというありがちな光景です。
この場合、どちらか(あるいは双方が)辛抱強くお互い損がないよう(あるいは損が少なくなるよう)着地点を見出すためにアレコレと話し合うのですが、これは一朝一夕でまとまる話ではありません。ヒドイと強権発動して現場が不満を抱えたままで執行されることもあります。
ビジネスの場では確かに利益が出なければ会社が立ち行かない、会社の存在を脅かす、という大義名分がありますから、会社のためになること、という言葉に多少は反発する側を言い聞かせる力があることが多いです。
ですがこれが家庭だとそうはいかないんじゃないでしょうか?
家庭内の決断は合理的じゃない?
表題の通り、家庭のための決断は合理的でないことが多いです。
例えば「スマホが欲しい」合理的に考えれば「家庭という全体の中にスマホなどない方がいい」ことが多いです。特に親からすれば子供用のスマホなどない方がよいでしょう。
スマホがあることのリスクで、
- スマホばかり触っていて、まともに親と会話しない
- スマホ経由で出会い系コンテンツにアクセスして危ないことに巻き込まれる
- スマホゲームを一日中やってて中毒・依存症になる
- 外出先でながら操作による事故の遭遇、あるいは事故を起こす
- SNSなどの簡単な情報発信によって、その場のノリで問題行動を起こす⇒で、炎上、と
- 利用料金が高額となってしまう、アプリ内課金をジャブジャブ使う(自分の金じゃないし、ってことで)
- 無料通話アプリなどでいじめ
- 無責任にスマホを使用することで情報漏えいする
と、数え上げればきりがありませんので、この辺にしておきます。
要するにメリットよりリスクの方が大きいということです。
特に親にとってはメリットよりリスクの方が多くて、なんでスマホなんか買い与えたのか?と疑問に思って自問自答するほどにリスクの方が多いです。
合理的に考えればスマホなんか買い与えるべきじゃないのです。実際に使用するユーザ(となる子供)にはリスクばかりです。
でも家庭内の考え方は合理的じゃないんですから、子供が喜ぶのであれば、子供が学校や友人関係でハブにされないのであれば、と考えてスマホを買い与えてしまいます。合理的な判断ではなく何か別の判断基準が支配しているといえます。
自家庭は合理的か非合理か
我が家は合理的に判断するか・非合理的な判断をするか、これはご自身のご家庭で決めること、ではあります。
自家庭の判断基準はどう物事を決定するのか、という大筋の部分から考えなければ良し悪しを判断することが難しいです。
合理的に判断するなら、ロジックを曲げず無理・無駄は極力排除していかないといけないし、
非合理的を容認する判断をするのであれば、家族の感情が満たされるような考え方をしなければいけない、
ということですね。
これが物事の一つ一つに対して、決断の下地になるほうがよさそうです。
例えば家計ですが、
合理的な考え方とする、と決めたのであれば、家計にとって無理な投資や無駄な買い物は全力で排除する必要があります。
非合理的な考え方でよいのであれば、金額云々よりも如何に使ったお金で家族の満足度が上がることにお金を使えるか、ということを優先して考える必要があります。
これが、
あの時は合理的に考えてこのタイミングでは非合理的な考え方、
という具合に時と場所で相違(使い分け)したり
母さんの買い物は非合理的な考え方なのに、子供と主人の買い物は合理的に考える、
という具合に人で相違(区別・差別?)したりすると、これはもうおかしなことになってしまいます。要するに不満という形で家庭内にくすぶってしまうわけですよね。
合理的か非合理的か、どちらが良いというものではありません。どちらも良し悪しがあるのですが、ことこれを都合よく使い分ける人がいます。
これを物事の決断の都度、都合よく使い分けると私は問題だと思います。
(だって、親の決断がブレブレだと子供は不満ですよね?)
貴方のご家庭ではいかがでしょうか?