突然ですが、職場のストレスで悩んでいませんか?
突如、週末の記事限定でストーリー調の記事を書き始めてしまいました。
記事はコチラ⇒燃尽奮戦記―1話:疑心芽生える - treedown’s Report
※各話の文末に次回へのリンクがあります。
体験談をベースに記憶の限り(一部記録あり)再現した
「退職の決意をし退職願提出から紆余曲折を経て元の部署に復活するまでのストーリー(記録)」
です。
もともと、以下の記事の時期に心が耐えかねて、燃え尽きてしまった私が退職を決めたことがきっかけでした。
⇒リンク:超が付く超過勤務を体験して思った7つのこと - treedown’s Report
この過去記事にあるCase1の時期は、本当に忙しいだけでなく上司が事あるごとに"詰めてくる"、"詰められないために無理をする"、まさにはまり込んでは抜けられない負の無限ループでした。
社会人として仕事をしていればストレスとは無縁でいられない、というのはある種"宿命"です。
ストレスに打ち勝つ人もいますし、ストレスに負けてドロップアウトしてしまう人もいます。世の中にはいろいろな人がいて世間が形成されています。
この一連の記事に出てきた上司も、ある取り方をすればパワハラ(パワーハラスメント)だという見方もできますし、人によっては"これしきパワハラとは言えない"という見方で感じとる人も居ると思います。
ですが、こうやって精神的に追い詰められた方はお判りでしょう。
パワハラ、も他のハラスメントも、やられた方がそう認識して自身を害してしまえば、それは立派に成立しているのです。
これらは相手あってのことです。同じアクションでも相手がどう受け取るのかによってハラスメントの成立は大きく針が動きます。つまり、他の記事でもよく出てくるセリフではありますが"日頃の積み重ねは如何に大事なのか"というところに尽きます。日頃の積み重ねがあって、対象にそのアクションが為されて、そのアクションが繰り返され相手に負の感情を持たれてしまった時点で、それはハラスメントになってしまうという感覚でおります。
イジメる側がイジメられた側ほど"イジメ"について記憶がない、というロジックに似ていますね。イジメた側が忘れていたり記憶が変質して仲良しの延長でからかっていたくらいの記憶だったりしても、イジメられた側というのはその恨みを一生忘れないものです。
私も、精神的に追い詰められたのは人生で初めてのことでした。
追い詰められたから、どうしていいか分からず、誰に相談していいか分からず、一人の中に閉じこもっていきました。
周囲にうまくヘルプを出すこともできず、あまりうまく立ち回れない状況だったと反省する部分もあります。
同じ状況で、同じ心境に陥っている人がもし居たら、ちょっと立ち止まって見て、
周りには味方がいないか、自分の追い込まれた状況を打開する方法はないか、
本当に相談できる人は居ないか、上司の上司も同じ穴の貉なのか、
そんな、ご自身の環境について見つめ直してみてもらいたいです。
そして、自分を取り返しのつかないくらい傷つけてしまう前に、どうにか対策を考えてもらいたいと心から思います。
考える前に一つ、事前に知っておいていただきたいのは、
・我慢するだけでは状況は変わりません。
・あなたの努力は決して、報われることはありません。
・うまく行っていない上司から、逆転した評価を引き出すことは無理があります。
私の経験だけの話ではありますが、前提としてこういった壁があることは認識していても損はありません。
逆に言えば、前述のようでなければまだどうにかなる希望が残されているともいえるのかもしれません。
私はこのストーリーで「理不尽なことに耐える必要はない。」という主張をするつもりはなくて、さりとて「理不尽なことはすべて受け入れなければならない。」と主張するつもりもなくて、ただ、
「嫌なことはあるけど、それでも頑張れる。」
そんな職場では存分に頑張ってほしいと思っています。
でも、「行き詰っている職場で自分自身にも周囲の環境にも絶望しかない。」ということであれば、その場所に留まる理由はないんじゃないか?とも考えています。
私もそうだったのですが、こんな状況に陥れば
「私はダメな奴だ…。」とか「私が居ない方がこの部署もこの会社も、世の中もいいんじゃないか?」とか、自身の存在自体を否定的にとらえがちになります。
このように自身を否定的に考え始めると、どんどん悪いスパイラルにはまり込んでしまいます。
しかし、考え直してみてください。
存在しないほうがいい人間、というのは世の中には居ないのです。
一見、社内や部内でお荷物と思われている人も実は会社組織の何かしらの貢献をしているのです。
目の前にあるミッションや数字でしか表現されない結果だけでしか、会社組織に貢献しているかどうかを判断してはいけないのでしょうか?
否。
私はそうは思いません。正確言えば、途中からそうは思わなくなりました。
失敗ばっかりの社員も仕事中に居眠りが多い社員も、
同じ組織で働いている社員として、人格攻撃やその尊厳をないがしろにしていいわけではない、と考えています。
だからといって、ずーっと年中失敗ばっかりしていていいわけじゃないし、仕事中に居眠りしていいわけじゃない、というのは当然です。
これを会社組織として容認するは話のレイヤが違います。(いや私はやってないですよ。)
重要なのは、そんな人達を「人格攻撃」したり「社内いじめ」の対象としてないがしろにしていい存在、ととらえるのは間違いです、と理解して欲しいです。
世の中にはこの記録をはるかに上回る過酷な環境があるのは事実です。
結局このストーリー自体はまだマシな方で序の口、ともいえるくらいのものかもしれません。
世の中や会社組織内に理不尽なことは存在します。これはまず認識できます。
ただし理不尽なことにも、個人で消化できる理不尽もあれば、個人では到底消化しきれない理不尽も存在します。
個人では消化しきれない理不尽の中に、「人格攻撃」や「社内いじめが」含まれていることもあります。そしてそれは被害者が決めることであって加害者は意識すらしていないことが往々にしてあるのです。そしてそんな理不尽は人間を潰してしまうのです。
現実社会に存在する負の一面、
「これを自身が消化できるかどうかは貴方がその場に留まってもいいかどうか。」
という、現在を考える点、ひいては
「自分が留まったその環境で、未来の自分自身は留まった自分を褒めてあげられるか?」
これを、考えてみて欲しいと思います。
自分自身と会話して、自分自身の声をぜひとも聞いてみてください。
ストーリー中に出てくる配転先のY部長と話すようになってから"働く"という感覚が変わってきました。
「君たちはさ、幸せになるために働いているんじゃないのか?」
働く意味って何かってことです。冷静に考えればその通りです。
収入を増やして豊かな生活がしたいんです。そのために働いている、というのは一つの考えかたです。
「働くのは、さ。生活するためだろ?じゃあ同じ努力をするんなら、不労所得を増やせるように努力したらどうだ?働くために人生を生きているわけじゃないだろう?」
冷静でない状況では物事を混同しがちです。「働くための幸せ」と「幸せのために働く」では字面だけは似ていますが根本的な何かが違う、ということのようです。
そして身を粉にして働くことに対価という成果がでず、収入が上がらないのであれば、そこに努力を向けるのはあまり有効じゃない、と述べます。
収入を増やすために、どうせ努力を向けるのであれば、労働を伴わない不労所得を増やす、ということに対して自分の力を向けたらどうか、と言われました。
私の考え方では、ここは、「働くことで得る幸せもある」し「幸せの実現のためだけに働くという手段があるわけではない」という一面もあると思っています。
人間耐えることは必要です。これは間違いないです。理不尽でも耐えなければならない時期や局面は必ずあります。我慢が足りない、と言われることもあります。
でも耐えに耐えて、自分が壊れてしまう、ないし自分の存在を否定するようになってしまうのであれば、それは我慢が足りないのではなく、環境の問題も考慮する必要はあるだろう、と考えるようになりました。
これは働くことと幸せの相関関係以前の問題として、働く環境/毎日通う職場、が自己否定を生産する不幸な場でしかないのであれば、その環境には耐え忍ぶほどの価値は存在していないのだとも思います。
ストーリー中に出てくる配転先のY部長が口癖のようにこう言っていました。
「みんな!幸せになろうよ!!」
貴方は幸せになる権利を持っているのです。