退職を決めてからというもの、心が軽くなった。
鬱状態、という疑いを自分自身に持っているので気が晴れない日々は過ごしていたが、
昨今の世の中は多かれ少なかれそのような気の晴れない気分を日々抱えながら日常の時間を過ごしている人間が多数派だろう、
と自分に言い聞かせるようにしていた。
だが、思わぬところから人生の分岐点が訪れる。
ある日の午後。いつものように退職のための引継ぎを終え喫煙所で休憩をしていた。
転職、って初めてなんだよな。どうしようかな。
と考えて喫煙所で煙をくねらせていたとき、別部署の同期社員Aが買ったばかりの缶コーヒーを片手に喫煙所へ入ってきた。
「聞いたよ。このあとどうすんだ?」
どうやら、管理職会議で退職が報告された結果、この部内のミーティングで管理職会議の内容が展開され、退職の話を聞くこととなったらしい。
「転職するのか?もう決まっているのか?」
やはり同期として付き合いが長いと、心配になるものである。
だが、つい余計に心配させることをAには報告することになってしまった。
「いや、まだ全然決まってないんだよね。転職エージェントの世話にでもなろうか、と。」
同期Aからすると、今までも同期や後輩の退職者を多く見てきた。中には退職面談という経験もある。特別親しくしていた身近な同期社員の退職には少し特別な感情があるようだ。
「で、さ。気になっているのは、なんで転職するの?会社が嫌になったか?(笑)」
同期Aからすると、退職面談などの経験上、社員の転職は会社が嫌になった/会社に来たくなくなった、という理由が一番多い。確率的に一番高そうな理由で水を向けてみた。
が、同期Aにとっては意外な答えが返ってきた。
「別に会社は嫌じゃないんだよ。それは今までもそうだしこれからもそうだ。知ってるだろう?」
同期Aは、昔、派閥闘争が激しくなった社内で、二人共一緒に閑職へと追いやられたときのことを思い出していた。
話は続く。
「会社は嫌じゃないが、今の部署はもうごめんだ。
毎日終電で帰宅しても終わらない業務量、一人退職したのに人員の補充がない状況で終わらないタスクについて毎日気まぐれな説教。ストレス発散?かのごとき進捗確認という名のミーティング。
家族との時間が持てないこんな人生になんか価値あるか?って考えるようになってきた。」
初めて自分の心のうちを話すような錯覚に陥った。しかしそれは錯覚ではなく、いままで誰にも話せなかった自分の本心、心の内だった。
今まで抑圧されていた自分の本音を、こうして聴いてもらえることで徐々に核心に迫ってくる。
「結局、終わらない業務量を毎日こなし、残業付ければ残業多すぎで説教だ。要らぬ説教避けるため時間をつけなくなってから結構時間が経つなあ。こういうのに疲れたんだよね。
この間の話だが、」
そういって、ちょっと声色を変え、自分の上司の声真似をしながら、上司から言われたセリフを再現していた。
「”君、鬱病じゃないか? 部署から鬱で休職者が出たら困るんだよなぁ~。管理職会議のマネジメントインジケータ(指標)で、鬱病による休職者数の右肩上がり指標が注目されていて、ついこの前に部下のマネジメントに気を付けるように言われたばっかりなんだよな。一度会社の産業医で診断行ってきて。”
と、こういうんだ。鬱病かも知れない社員に言うセリフか?これ。」
社員である自身を人としてではなく、"指標という数字"でしか扱われない憤り。
気が付けば洗いざらい話し出していたことに気づき、ここは会社内の喫煙所だと改めて気づいて、ブレーキが掛かった。居酒屋で飲みの席ならばここからさらに数十分、ビールお代わりの時間を入れて一時間は話が続いただろう。
同期Aはタバコを深く吸って深呼吸のように吐き出す様を繰り返し、黙ってずっとこの話を聞いていたが、何かを確信したかのように、1つだけ質問をしてきた。
「上司が嫌だ、ってことか?」
うっ。これは核心だ。確かにそれに類することを話し過ぎたかもしれない、と自分の心の声が聞こえる。
確かにそうだ。
いままで隠してきたが…はっきり言って…
上司が嫌なのだ。
仕事を押し付けるだけで何の力にもならない上司。
管理職会議で好きなこと放言するだけで、実際の前線である業務の現場では何の役にも立たない上司。
それでいて、自分のことを貶めるかのように受け取れる発言を全員の前で毎日語気を荒げて吠える上司。
それはもう毎日、朝になれば会社に行きたくないとは思う。
だけど会社には来る。
なぜか分からない。
でも会社には来る。そして毎日語気を荒げた上司の小言を聞く羽目になる。そのたびに会社に来ていることを後悔することになるのだが。
こんなことが1年半程度続いた。
むしろ、これで出社拒否にならなかった、1年半ずっと(風邪以外で休まず)出社してきた我が勤務態度を褒め称えてもらいたいくらいだ。
だが、もういいのだ。いままで自分はよく耐えた。よく耐えて自分が崩壊する前に退職を選択し舞台から退場と幕引きを図り、それほどの"いさかい"もなく自分でこの会社での社歴という歴史の幕を下ろすことができた。
ある種、自分はもう終わった人間なのだ。そのような達観した面が醸成されつつある。
だからもういいじゃないか?
上司が嫌いだ、ということを信用できる同期Aに言ったから今後に何か問題があるか?
否。
脳内ではこんな自問自答を巡らせた結果、その意思が言語化された。
「そうだ。上司が嫌だから辞める。」
なんで辞めるの?という質問の核心にある答えはこれだ。
間違いない。本人は薄々しか気づいていなかったが、これなのだ。体面を気にして毎日生きているって感じがしない自分に何か原因を求めたかったのだが、結局人とはそんな崇高じゃない。
そして、会社組織で上司は選べない。
ただし、そんな追い詰められていた彼は一計を案じていた。
募った恨みを晴らす手段を一つだけ用意していた。
それが、「退職すること」だ。