超過勤務に人生を狂わされる方は最近増えているように見受けられます。
いや昔より可視化され知る機会が増えた、というべきなのでしょうか?
今回は報告というより感想文に近いですが、超過勤務をした経験を元に、何が人を傷つけるか・なんで人はがんばれるのかを考えてみようと思います。
今回は、経験した超が付くほどの超過勤務のうち代表的な2つを元に考えてみました。
2つのケースでのそれぞれの全勤務時間は以下のようになります。
Case1:292時間/月
Case2:363時間/月
Case1は所属している自社内の部門での業務です。
Case2は所属会社の契約先(出向先)での業務です。
細かく状況を説明していきます。
Case1の環境概要
社内情報システムの部門に所属していた時の勤務時間。社内情報システムは転換期で労働状況は悪化、さらに一人退職して退職者分の業務も割り振られた。ある程度長く勤めていたので周囲は顔見知りが多いです。
Case2の環境概要
別会社への出向先業務でいわゆるプロジェクト炎上、デスマーチ状態。社をあげて炎上プロジェクトの鎮火に取り掛かっている状況。労働環境はサーバ室の温度を再現したキッティング作業現場のためかなり劣悪。ヘルプで召集されたので周囲はほとんど知らない人です。
結果
なにごとも結果から。
Case1では精神的に病んでしまい、職を辞することになりました。(のちに部署異動となりました。)
Case2では契約の終了まで円満に勤めることができました。
つまり結果だけでみれば、超過勤務時間の度合がひどいCase2のほうが円満に終わりハッピーエンドにおさまっていますが、超過勤務時間が短いほうのCase1では精神的に病んでしまうというバッドエンドという結果を迎えています。
勤務時間だけで比べると逆の結果となっています。
この違いはどこにあるのか一つ一つの要因を元に考察してみます。
1) 超過勤務に終わりが見えていたかどうか。
2) 周囲の人に恵まれていたかどうか。
3) 様々な仕事に関わり、業務に精一杯の全力を尽くしていたかどうか。
4) 残業代は支払われていたか、サービス残業だったか。
5) 他の第三者へ助けを求められる状況だったかどうか。
6) 大事な家族がいるか、理解があるかどうか。
7) 会社(の中枢)が自分の状況を把握してくれているかどうか。
それぞれを深掘りしてみます。
(1) 超過勤務に終わりが見えていたかどうか。
私が経験したこの2つのケースにおいて、超過勤務を耐えることができた一番の要因は終わりが見えているか否か、が一番大きいと思います。
Case1では自社内自部署だったので、終わりが見えない状況でした。
Case2では他社の出向業務だったので契約期間=終わりが最初から決まっている状況でした。
最期の時があらかじめ分かっていれば、人はそのエンディングに向かって一時的に自分の枠を越えたパワーを出すことができるものです。が、これは終わりがない、恒常的な状態とか、この望まない状況が永遠に続く、という認識で日々を過ごすともう退くも戻るもなくただ突き進むしかなくなります。ただ突き進んだ先に待つものは「あなたの健康を害するバッドエンドです。」(よほどのミラクルが起こらない限り、と付け加えておきます。)
(2) 周囲の人に恵まれていたかどうか。
これも重要なポイントです。
Case1では部内に競争原理があったので、あまり弱みが見せられないところがありました。社内ならではの駆け引きもあったり、部署間における主導権を自部署が如何にして掌握しなければならないか、というところに注力するよう日々指導されていましたね。周囲のメンバーはいずれも社歴は長い社員で固められています。
Case2ではとにかく炎上したプロジェクトを終わらせる、という目標に向かって全員が日々過ごしていたのでそれ以外の価値観は何だっていいような雰囲気がありました。そもそも主導権は自社になくて顧客にあるので、振り回されてはいましたが。周囲のメンバーは社歴が長い社員も短い社員も混ざってカオス状態(笑)です。
あまりうまく比較できていませんですいません。
こういうときによく言われるのがメンターの存在ですが、どっちの状況においても自分のメンターと呼べる存在は居ませんでした。
ここの違いとして実感しているのは周囲のメンバーがどれだけ一人一人のメンバーを気遣っていたか、です。
炎上したプロジェクトを終わらせるためにはメンバー全員が無理をしなければならない状況に追い込まれています。
その中でも(その中だからか)メンバーは(多少自分に厄介事が回ってこないようにしていたとしても)お互いの健康だけは気遣うような雰囲気になっていました。明日は我が身だから、というのとメンバーが一人リタイヤすることでその業務の皺寄せが他のメンバーにくるのが理由かもしれません。とにかくメンバー間では顔を合わせれば「大丈夫?」と健康に関する話題になりました。
自分も気遣い、相手からの気遣いも貰える、という環境は競争原理がもたらされた部内では得られないと思っています。
別の考え方をすればこのCase2では炎上プロジェクトをリタイヤなく終わらせるためにみんな働いていたと言えるのかもしれません。
そういう意味では「目標が共有できていたか。」と言いかえてもそれほど齟齬はないようにも思えます。
(3) 様々な仕事に関わり、業務に精一杯の全力を尽くしていたかどうか。
この項目は通常とは逆の意味です。
一つ一つを丁寧に全力で取り組むことは否定しませんが、上司やメンバーから振られる業務すべてに精一杯の全力は尽くしてはいけません。
あれもこれもと割り振られる業務すべてに全力を尽くしていると、そのうち1日8時間の定時時間内では時間が足りなくなります。そうして残業(毎日終電)や休日出勤といった具合に自分の時間に手を付け始めるのです。周囲はそんな働きを重宝がりはしますが心配して業務量を減らすように取り計らってくれるとは限りません。
ここに第一の失敗があります。
周囲はそのうちそんな自分の時間まで犠牲にした働き方が恒常的であると認識するようになり、オーバーワーク状態こそが当たり前と思うようになり、あまつさえオーバーワーク自慢で張り合うような雰囲気になるとそろそろ危険信号です。
オーバーワークを半年も一年も続けて持つわけがありません。人間でも機械でもオーバーワークをエンドレスに続ければ燃え尽きてしまいます。
燃え尽きたら代わりの人を連れてくるだけ、(実際そうでしたからね。)というドライな対処は会社としてはきっと正しい対処なんだと頭では理解できます。
でも燃え尽きた側からすれば、どうしたらいいんでしょう?気がつけば日常のすべては仕事、それでも終わらない仕事、全エネルギーと時間を費やしたはずの仕事、なのに燃え尽きて精神的に病んでしまうと、休職者リスト入りでその後は未定。あれだけのエネルギーと時間を費やしたはずの仕事がどうなるかといえば、代わりの人が連れてこられて何事もなかったのように組織は日常という時間が流れつづけるのです。
実に悲しいじゃないかと思ってしまうのです。
Case2ではこのCase1での経験があったので、まずひとつの担当を早めに受け持つことで「様々な仕事に関わる」ことをできるだけ避けるようにしました。そのうえで手伝えることは手伝うけど「あくまでも手伝い」のスタンスは崩さないよう努力しました。つまり主担当の能力が高くても低くても自分で主導権を取らないようにすることです。実際に「私ならもっときれいにやるけどなぁ…。」と思うこともありましたが、思うだけで積極的に介入はしませんでした。
業務量はたくさんありましたが、できるだけ絞って自分の能力の100%にいかないようバッファを持つようにしました。
バッファの使いどころとして他の担当者の業務を手伝う、不測の事態や障害に対応するための余力にしました。
結果として労働時間は精神的な健康状態と反比例することになりました。
Case1のもう一つの失敗がここに関連します。
「自分はもっとできる。」と思いあれもこれも振られるのにただただ突っ走って成果を出していましたが、自分がスキル的にできることと自分が(時間を含め)総合的にやれることには明らかに乖離するタイミングがかならずやってきます。
今現在の幸せに思えることを犠牲にしてリタイヤしてしまうレベルで仕事をこなしたとしても、長い自分の人生の中でそれだけのレベルで仕事をしていた(犠牲にした)時間や健康は戻ることはありません。これが現実です。
ただし、何も得られないと言っているつもりはなく、当然のことですがその仕事に対する経験値や対価など得られるものはあります。
さらに、日々を「のんびりゲームだけしていれば幸せ。」という人に対して怠惰を推奨しているわけでもありません。気づかないだけで怠惰は周囲の迷惑になっていることが多いです。日々スピード感をあげて世の中は進歩しているので、未来への自分へ投資する意味での厳しい環境を乗り切るような仕事振りをこなす日常もあなたの成長には必要な時間です。
でも厳しい環境を乗り切る前に燃え尽きてリタイヤしてしまうのであれば、未来の自分へは投資できていないことになりませんか?それなら評価が落ちることになったとしても休息して自分を取り戻しませんか?
「幸せだと思えることを犠牲にしてまで得るものがあるかどうか、それは自分自身にしか分からない。」ということです。
だったら、100%のパフォーマンスを発揮して1年で燃え尽きるより、自分のパフォーマンスのうち80%くらいを継続して発揮できるほうが実りある人生になるかなと現在は考えを改めています。
私の中学校時代の担任が口癖のように言っていた言葉が当てはまります。「継続は力なり」
(4) 残業代は支払われていたか、サービス残業だったか。
そのまんまなので、あんまり書くことはありません。
Case1では残業規制が厳しく、残業が多いことで毎月吊し上げられてしまうので、残業をつけることができませんでした。
もう少し詳しく言うと、もともとは見込み残業という制度だったのですが見込み残業廃止→残業時間分残業代を支払い/休日出勤では休日分の割増賃金を支払い、という制度の改善がありました。
が、仕事量は増える一方でも残業時間に対する締め付けは非常に厳しい状況だったため毎日残業時間が多いという説教も仕事が終わらないことに対する説教もされたくない、と考えてサービス残業をするようになってしまいました。
Case2では満額出ました。
指示出す側に理解してもらいたいのですが、残業はするな、仕事は終わらせろ、では何も具体的に指示できていません。
旅行代理店に行って「俺は月に行きたい。予算10万円で月面に日帰り旅行させろ。」という人が実現不可能な要求をしていることは明かですし、不動産仲介業者に行って「人気の山の手線の駅徒歩5分圏内で2LDK家賃3万円のマンションの物件情報を出せ。」と言うことが無謀だということも明らかです。
しかし、企業の中では、本来トレードオフのはずの仕事量と時間は両方高い水準を要求されてしまいます。
なぜなんでしょうか?さっぱり分かりません。
「残業するな、仕事は終わらせろ。」という台詞は、「ニュータイプに目覚めよ。」とか「部下のセブンセンシズよ。めざめよ!」とか言ってるのと同じで新しい人類や聖闘士に要求するエスパー側の能力を現実世界で要求しているのと同じだと認識して欲しい。
でも指示する側はそんなこと意に介すわけもなく日々は過ぎていきます。
無理をせず無理なものは無理(だから周囲の協力が必要)、それが自分の能力でありそんな自分を大切にして欲しい、と切に願うわけです。
あなたはきっとエスパーではありません。
(5) 他の第三者へ助けを求められる状況だったかどうか。
先に書いてしまいましたが、周囲の協力があって始めて能力を越えた成果が出せるものです。
「いやそんなことはない、私は一人で能力以上の成果を出した。」という方がもし居るとしたら、"周囲の支援に気づいていない"か"あなたはもともとその能力があった"のどちらかだと思いますよ。
周囲の協力が期待できない状況であれば、自分の能力を越えた仕事を孤独に抱え込むのは私は反対です。
Case1ではやはり周囲があまりあてにできなかったので、自分の許容範囲を越えた仕事量になった時点でさまざまなヘルプ信号を周囲に出すべきだったんだろうな、と思います。(それを周囲が受け取ってくれるかどうかは別として)
またちょっと意固地になっていたところがあるかもしれません。
Case2ではこれは無理だという判断を自分で下した時点で周囲に「1人ではできない分量(レベル)だ。」という意志を表明するようにしていました。「じゃあ、一緒にやりましょう。」が常套句になっていましたね。(周囲を巻き込むスキルです。)
先に書いたように、自分の能力を越える成果には周囲の協力が必要、となるとどこで自分の能力を越える仕事量になったかが判断できなくては自分には無理な仕事量になったという事実を周囲に知らしめることができません。
また、周囲との相対的な仕事量のバランスも見極めれるようにならなければ、「あいつはいつも自分の仕事を周囲に押し付けている。」と誤った印象を与えかねません。
他の第三者へ助けを求めることで支援を得ることができる、ということは普段の自分は"真摯に仕事と組織の人に向き合っている。"ということであり、それが衆知の事実となっているのだと思います。
いざ周囲の助けを求めたときに「あの人がヘルプを出すくらいだから、相当に困っているに違いない。」と思われるように、普段の自分は真摯に誠実に、さらに自分がどのような業務内容かが伝わるような普段の行いが積み重なって、いざ困ったときに救いの手が差しのべられる、というものではなのかと。
となると、普段の仕事でつまらないことや自分にプラスにならないと感じる仕事であっても、誰かがありがたがるのであればやって損はないと思います。
人付き合いが好きでない人でも、「私は人付き合いが嫌いだ。」と開き直るより、人付き合いをちょっとづつでも消化できるように自分を変革して損はないと思います。
善行を重ねていた人が窮地に陥ったときに見捨てるような人はまれですが、それでも確かに存在はします。
その時は、自分は一体なんだったのか、何をしてきたのか、という虚脱感に襲われますが、そういう周囲は見限って新しい環境へ巣立って自分を救済してください。
周囲は自分の鏡、自分が助けて欲しいときがいつ訪れるか分からないけどそれでも助けてもらうためには、普段から自分は周囲を助ける存在であれば、長い目でみてよい結果になります。きっとなります。
(6) 大事な家族がいるか、理解があるかどうか。
子供は純粋に親の心配をしてくれます。
その純粋さは大人はかないません。ましてや血縁でない大人達の比ではありません。
子供は利害関係なく心配してくれて、親が元気になる言葉を掛けてくれます。
ただし、子供が自分を応援してくれるかどうか、は、やっぱり普段から応援してもらえるように子供に接しているかどうか、も重要だと思います。
しかし子供が尊敬に値するところは、いくら親が子供に愛情を与えることができていなかったとしても、何かを感じ取れば親を応援してくれるところです。(利害がないのです。)
ここではあまり書くことがありません。
子供が自分を応援してくれるというだけで人の親はがんばれると実感した、とだけ認識してもらえれば。
(7) 会社(の中枢)の人々が自分の状況を把握してくれているかどうか。
できるだけ最悪の結果は避けたいものです。
最悪の結果というのは、自分が病んでしまうとか退職せざるを得ない状況になってしまうとか、あまつさえ周囲を巻き込んで事件になってしまうとか、そういう不幸だなと思ってしまう状況に陥ることと定義します。
Case1は社内で部署のフィルタに掛かってしまうので実態が他部署に伝わりにくい、という面がありました。
Case2は社外への炎上プロジェクトを全社あげて消火しようとしていたので全社誰もが知っているような状況でした。
会社の人たちが自分の状況を把握してくれている/理解してくれている、と具体的な支援が得られることが多いです。
Case1だと私が悩んでいるかどうかすら周囲には分からないのですが、Case2でいえば大変な状況に参加したんだな、ということ自体は周囲は分かっているわけです。「なにかできることはありませんか?」と気を配ってくれてるんだろうなと感じることは多かったです。
規模が小さい会社などでは社長/管理職以下はフラットな組織でしょうから会社のトップでも社員一人一人の状況が把握できているのではないかと思われます。
規模が大きくても風通しのよい文化であれば同様です。
よく会議なんかで一括りに「コミュニケーションを密に。」と一言で語られることが多いですがこの"普段からのコミュニケーション"というのは何なんでしょうか?
普段から自分はこんなことをやっている、こんなことを目指してやっている、というような自分を表現するような会話ができていると、会話の中で自分はこんなことで困っている、こんなことで悩んでいる、ということも伝えやすくなります。
相手の琴線に触れるようなことがあれば、人はもっと彼を理解しようと自然に行動に反映するでしょう。
これがコミュニケーションの正体じゃないかと思います。
会社の中心となる人物達に対して自分の理解が進むような会話ができているか、これができていれば最悪の結末を避けるための準備はできていると言えるのかもしれません。
重要なのは「困っているのなら何か私にできることはありませんか?」という支援を引き出せること。
有事といえるその時にあなたの力になるかどうかは日常の積み重ねで決まっている、と、まあこう考えると日常で短気をおこして怒鳴り散らしたり人格攻撃したり、自分より弱い立場の人間を痛めつけたり、そんなことをやってる場合ではないですよね。
体験を元に思ったこと/考えたことを自分の意見として表明してみました。
異論/反論はあると思いますが、一人の人に起きている現実は他の人に取ってはフィクションに思えます。
実際に自分が体験したときに始めてノンフィクションとなります。
もし、混沌の渦中にいま立っているようでしたら拠り所が見つかることを祈っています。
また最良の形で脱出できるといいですね。