treedown’s Report

システム管理者に巻き起こる様々な事象を読者の貴方へ報告するブログです。会社でも家庭でも"システム"に携わるすべての方の共感を目指しています。

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テストの採点、「A」と「Ⓐ」、「ア」と「㋐」は違う回答になるのか?

最近この手の記事が多くなってきました。
テストの採点基準で賛否、という話について考えたことをご報告します。

答えでなく答え方によって採点を変えられた、というニュースが物議を醸しだしています。

問題に、「~を~どうなるか、㋐、㋑、㋒から□に書きましょう。」と出題され、解答に「アを㋐と書かないと減点」ということらしいです。
※実際の問題文は"ⒶⒷⒸを書きましょう"だったらしいのですが、変換の都合がありますので、便宜上「ア」と「㋐」に置き換えて話させてください。

私個人としては、"先生が普段から「回答において"ア"と"㋐"は違う。」と主張している"かどうかがこの是非を問う際に重要だと考えます。
細かく言うと普段の授業やテスト直前にでも「"ア"と"㋐"は違います。正しい回答をしなければ私は減点します。」と主張しているかどうかです。
ふだんからこういった主張をしていない先生が、いざ採点にしたら「掛かったな!」とばかりに減点をして"出題通りの記号を書いていないからだ"というのはちょっと話が違うんじゃないの?とは思います。少なくとも私が生徒ならそう思います。
で、事前の説明なくこの減点行為を実施したと仮定しまして、生徒としては採点ミスじゃないか?とかなぜ減点されなければならないのか、について説明を求めたくなるのは自然な流れです。
この説明を求められた際に、大多数の大人は"これは正しい解答ではない"という合理的かつ納得を引き出せる説明はしてくれません。概ね、「そう書いてあるから」とか「常識」とか、抽象的な説明になってしまいます。
そう書いてあるから…ってまさに人のせいにするズルい大人です。じゃあテスト問題の制作者がそういう意図で作成した、ということを証明できるのか、とか、出題されたときにこのような減点対象がこの出題にはあります、と知る方法が提示されていたのか、とかいろいろ考えてしまいます。
相手は社会人じゃない、むしろ大人階段登ってる最中なんですから。「常識」の2文字で片付けるのは勘弁してほしいですよね。でも中学校も高校でも"常識"で片付ける大人は多かったです。
この時、私のような生徒は「常識」ってなんだ?と疑念を抱きます。"常識"を感覚的に身につける過程で学びがあり、その学びの期間が学生のはずです。当人は"常識"をわきまえた大人でない学びの過程に身を投じているのですから、"常識"という主張は目の前の大人が都合よく目下を従わせるための免罪符にしか見えないのです。
生徒当人にとって損に思える減点行為を実施するからには、とことんまで生徒の納得を引き出せる説明をできるか、全く反論の余地がない正しさを提示できるほどの気持ちの良い論破が欲しいです。生徒にとって「常識」などという言葉は逃げにしか映らないということは認識しておいて欲しいものです。
生徒の視点から言えば、自分が間違っているのであれば「間違っていました。」という納得が欲しいです。点数が欲しいわけではなくて先生と生徒という間柄でのコミュニケーションにおいて納得したいんです。「先生…バスケがしたいです…。」も似たようなものです。
で、こういうのに食って掛かる生徒を煙たがるかメンドクサくなって退けるとか、回避行動や防御行動に出るのが多数派の大人です。
もちろん少数派のいい大人もいますよ。でも少数派です。そんな大人にはなかなか出会えないです。現実は厳しいものです。

ちょっと話を脱線します。
ところで、今回の"ア""㋐"の他にも答え方によって減点されるケースがあるのか?
あるそうです。なかなか厳しいんですね、最近は。
 ひらがなで「あ、い、う」をカタカナで「ア、イ、ウ」とするとマイナス、
 漢字をひらがなで書くと減点(二等辺三角形⇒二等辺三かく形で×)
 もちろん昭和から伝統の名前を書かないと0点もあります
昔は、漢字で書けることを試験するためのテスト以外では漢字で解答を書くかひらがなで解答を書くかは問われませんでした。(少なくとも私の高校受験までは問われていなかったです。)なので、歴史上の人物でもひらがなでOKなテストはありました。漢字で書かなければ×になる問題は問題文に"漢字で書きなさい"と出題されていました。国語の問題であっても同様に「漢字で書かないと×や減点の問題は"漢字で書きなさい"と問題文に記載されていた」という傾向があります。
感覚的な話ですが、この辺は妥当だと誰もが思える部分ですよね。ただし出題に"漢字で書きなさい"と記載されていないのに漢字で書かなかったら減点、となるとやっぱり生徒にとっては話が見えないと思うんですよね。最初っから言ってくれって思うんじゃないかと。
いや、いいんですよ。減点しても。長い人生の中で、そのテストで不当に減点されたから人生が180度変わる、ということはそうそうありませんから。長い人生の中ではほんの些細なことでしかない、というのは事実です。

テストの意義、というのが変わってきているのでしょうか?
テストは勉強というプロセスを分かりやすい結果という形で数値化するための道具、という認識です。
だから重要なのはプロセスであってテストの点数という数値ではないはずです。創造性を鍛え「自分で物事を考える力を育てる」事ができるようになる人材が育成されるべきだ、という話になってませんでしたっけ?あれどこいったんでしょう?
テストの点数という数値で結果が出なかった、ということは何かしらプロセスに問題があったということです。勉強不足、睡眠不足、テスト中にトイレに行きたくなって集中できなかった、そもそもやる気がない…etc、プロセスを改善して結果を出せるようにセルフPDCAできるようになる人材が成長する人材です。この中で、1テストの数値が悪いということに問題はないことになります。継続してずーっと結果が出ないのであれば多少問題はありますが。
テストの点の取り方ノウハウ、みたいなある種の勉強の本筋から離れた思考に逃げ込んだとしても、それはそれで一つのプロセスの試行と結果ですからありですよね。
問題なのはプロセスの改善を放棄して自身の成長をストップすること、が一番問題であって、その他であればどんなことでも試行してみて結果を試すプロセスに無駄なことはないと考えています。
でもこのプロセス重視の部分において、"ア"と"㋐"の違いはやっぱり合理的な説明が思いつきません。問題は仮説に基づいて出題された検証を選択するために便宜上「ア」とか「A」とかの記号を選択することで正しいロジックを選択できたかどうか、という結果の判定のために便宜上記号を使っているだけに過ぎないのではないですかね?と感じてしまいます。
この考え方でいえば、ロジックは間違っていないのです。頭の中では正解しているのですが、伝え方が("㋐"のように丸で囲んでいないから)間違っているということでテストの点数という結果に「伝え方を間違えました減点」が反映された、と解釈すればいいのでしょうか?
じゃあ、この「伝え方を間違えました減点」というルールが世の中に存在する、ということは予めルールとしてどこかで宣言して欲しいですよね。
結局、世の中は権威とか権力がすべてなのですか、ああそうですか。
個人的には「ア」も「㋐」も伝わり方は同じだと思いますので、採点者が識別できる形で出題に対するロジックの解答を提示している時点で正解だと考えています。字が汚くて読めない、とか、意図してアとイの中間のような文字を書いていて判読不能、とか、そういった場合においては「伝え方を間違えました減点」というのは適用されてしかるべきと思えますが、これ、出題されたロジックへの解答ですから、文字(記号)として丸囲みがあるかないかを採点基準に加えてしまうというのはなんだか変な感覚に陥ります。(あくまで個人的な感覚ですよ。)

話を戻します。
学校の先生ってのは校内やクラス内では、ある種権威とか権力の象徴なんで、普段から言ってることをよく聞いている生徒が得をする、裏を返せば先生が言ってることをちゃんと聞いてない生徒が損をする、というのは至極当然の結果だと感じるのが私の感覚です。
それゆえ、冒頭で"先生が普段から「回答において"ア"と"㋐"は違う。」と主張している"ということであれば、普段から権威がどのようなロジックで採点しているか、を知り、テストの回答という行動に反映させる、というのは妥当に思えます。
会社でも上司や経営者が何を言っているか、どう考えているか、を知っている社員は結果にコミットできますし、そういったロジックを理解しない漫然とした社員が評価は今一つになるのはよくある話です。(しかしそればかりではないところも、また一つの真実としてあります。)
集団において権威的な存在を理解して上手く付き合える人が、その集団の中では得をする、ということです。

会社では経営者、部内なら上司が権威的な存在で、学校であれば先生が権威的な存在になるというのは自然なことです。
よくある究極の選択は、「上司が(会社が)白といったら、黒でも白と言えるか?」が古来よりつたわる究極の選択話です。
この選択肢は大きく分けて、権威に抗することで自分の正しいを通すか、長いものに巻かる精神で組織に従属するか、の2択です。
この2択、まんま当てはまるのではないでしょうか?つまりテストの採点をする権威に対して抗するか従うか、ということではないかと思います。

権威に抗することで体験することも権威に従って得る体験も人間を形成する上では役に立つと思います。少なくとも社会に出て会社組織に所属してからトライ&エラーで権威に向き合うよりはよっぽどローリスクで権威に向き合うシミュレーションができます。
実際の会社組織で権威への接し方を間違うと最悪生活に影響が出て取り返しがつかないことになるくらいの重い選択になります。
学校なら、卒業してしまえばだいたいは大丈夫です。どうせ失敗するのなら、学校にいるうちに失敗しておくのも手です。

学校というプレ社会で権威に対してどう接するかという一つの学習だと思えば、いいも悪いも生徒次第ということですね。

学校と教育は生徒のために存在しているのであって、決してムラ社会的なチープな権力を誇示する場ではない、ということを願ってやまないものです。