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treedown’s Report

システム管理者に巻き起こる様々な事象を読者の貴方へ報告するブログです。会社でも家庭でも"システム"に携わるすべての方の共感を目指しています。

いま話題の"受験に恋愛は無駄"について考えてみた

素朴な疑問 私流方法論 時事

今日はちょっとした世の中の話題になっている内容について、私の考えたことをご報告します。
本記事に記載されている内容につきまして、
「能動的に学ぶことが一番身につく」
を念頭においてお読みください。

最近「受験に恋愛は無駄です」発言でネット上ではちょっとした話題になっているようです。
ただ、なぜこれがネット上での注目を集め物議を醸しているのか、については分かりかねます。(素朴な疑問です。)

最初に結論として私の意見を述べてしまいますが、私の考え方としては
「合格することが目的なのであれば、無駄と断ずるほうが合理的」
と思います。
(反対派の人はちょっと待ってくださいね。)
ただし、あくまでも「合格することが目的」ならです。

合格するために必要なことしかやらない、すべての行動は合格するための布石、と考えれば、恋愛はメリットよりデメリットの方が多いからです。
メリットは"精神的な支え"とか、"心のよりどころ"みたいな可視化できないメリットがほとんどです。
デメリットは"勉強以外に時間を取られる"に代表されるように発言の主がいろいろ説明してくれているように受験への布石にならない活動は無駄と断じている点です。

受験が目的であれば、どれだけ暗記したかと暗記した知識をどれだけ応用して出題を回答(正答)できるか、が勝負なので、ここに恋愛がもたらすメリットが介在する余地はない、と思います。

さて、では「受験に合格する」、という目的は誰の目的でしょうか?
という、ポイントについて。

要するに、「受験に恋愛は無駄」と断じている人も、その著書の読者も、"実際に受験に立ち向かう当事者ではない"点において、議論が紛糾している一因があると思います。
つまり、いかがなものかと反論している派「受験に恋愛は無駄ではない。」派は、受験に合格する目的の主体者は受験する本人の視点で発言をしているはずです。で、父母のようなサポーター視点で語られている「受験に恋愛は無駄」という点といささかかみ合わないことになります。

会社の会議でもよくありますね。視点と前提が異なる議論はすれ違いです。

受験の役に立つ行動以外の行動を制限するのは合理的です。
無駄なことをしない、という点において合理的、という意味です。

ここから合理的でない(反対派)部分の話になります。
で、合理的なだけで世の中全部正しいかと言えば、そう言い切れないことが多いです。
正論がすべて正しいわけではない、というのと同じです。

じゃあ受験に合格したら目標達成で人生成功?というとそうとは言い切れない部分もあります。ましてや合格がゴールではなくてスタートという考え方もあるわけです。必ずしも合理的な行動しかプラスにならないという説明には釈然としないものがある人は居ると思います。それもきっと正しいです。

恋愛は人の気持ちを…
読む、察する、感じる、駆け引きする、、、etc
が必要になります。
最近の若者はコミュニケーション能力が…などと嘆く年長者からすると、ここ抜けているという点が一因ではないかと考えられます。
恋愛で得る能力は、定められた出題に(ある程度)定められた答えを出す、という「受験における問題解決」とはまったく異なった能力が求められる「問題解決能力」を要します。
その能力は「答えのない問題に答えを出す能力」です。
で、この受験とは全く異なる問題解決能力は、学校、会社、取引先、顧客、といった全ての仕事において「人と関わる以上は不要と断ずることは難しい」能力の一つだと思います。

恋愛で得る人格という能力と、勉強で得る知識という能力は全く別次元で比較できないしどちらをとるという性質でもないのが実情です。
両方あるに越したことはないし、社会にでれば知識よりも人格が重視される一面もあります。
でも受験で必要なのは人格に非ず知識(勉強量/質)が問われます。
受験を目標にした場合では合理的ではないのに、その人を評価する際には人格が問われるというところにジレンマが生じてきます。

また、勉強には切替が必要です。私は物理や数学があまり得意ではなかったのですが、漫然とテスト勉強しているとこの切替が上手くいかなくてダラダラ一科目の勉強をしがちです。
切替が上手い人は一教科に飽きたら別の一教科を勉強します。同じ論理で勉強に飽きたら「別のこと」で頭を切替してまた勉強に向かえます。
この「別のこと」へスイッチを切り替える先として恋愛があってもいいですよね。本人が望んでいるのなら。
でも頭のスイッチ切り替えるのは意識してやらないとだめです。時間と意識を時間で区切って最大の効果をあげるよう集中しないとダメです。漫然としていては効果は最大化しません。
「私は切替が上手くないんだよね…。」という人はノイズを減らせばいいですし、「私は切替をしっかりやる。」という人であれば、多少ノイズがあったとしても目標を達成できます。

ちょっと別の視点も考えてみます。

あの学校に合格する、という価値観が今一つ理解できなければ、合格というゴールに向かっていくための目的意識・動機づけとしては弱いです。(この場合に合格はゴールにすらならない。)
恋愛相手と同じ学校に合格する、という価値観であれば、人間の本能を起源とした目的意識・動機づけになるので、合格は明確なゴールとなって、そのために必死で勉強するという手段に妥当性が生まれます。
往々にして本人以外は誤解しがちなのですが、多数派は後者です。
つまり、受験するのは本人で本人の目的意識が合格という二文字で不動のものとなっていれば、動機づけはなんでもいいよね、ということです。
私も苦労はしていますが、「勉強しろ、勉強しろ」とハッパをかけることに全く意味はありません。勉強しろと言われてしている勉強など長い人生においてそれほど意味をなさなかったです。
でも自分で必要があったから勉強したこと、自分でこれをやろうと決心して勉強したこと、自分から能動的にした勉強は覚えていますし身になっているのでふとした拍子に知識が使えることになります。
例えば、学生諸君。「歴史の授業(勉強)って何の役に立つの?」とか「歴史って勉強しても役に立たない。」と感じている人が実際にいますが、歴史を勉強する意味は、いま話題の法案を理解するために必要な前提知識です。歴史が分からないといま話題の法案の何が問題で何が必要とされているか、が分からないはずです。
で、理解する必要がなぜあるかというと、民主主義によって国民が意見を政治に反映させるのは「国民の義務/権利」だからです。
法案反対の人は、選挙で反対だという民意を反映させた投票をする必要があります。賛成の人も然り。第三の意見を抱えている人はその第三の意見を反映させるための投票先を探さなければならないのです。
正しく意見を反映させるためには、歴史の勉強によって正しいプロセスを理解して、どうしてこうなったか、が理解できたところで「自分はこう考える。」という考え方を反映することで、結果自分の日常生活に跳ね返ってくる、という部分は必ずあります。

目的意識やそのための動機づけとして純粋に「合格すること」や「勉強すること」を考えるのが困難な人にとっては恋愛だろうが他の目的だろうが何だっていいから、自分が能動的にやろうと思える動機を見つけることができればいいのではないでしょうか。
好きなことや好きなことに役に立つのであれば人間は限界突破できます。
でも好きじゃないと自分で自分に言い聞かせてしまっているところはあります。
勉強という行動を通じて学ぶことの楽しさを私たち親が上手く伝えきれていないとも言えるかもしれません。

でも学校でやることは意外と時を経て役に立つものですよ。
高校のときに物理で電気のことや電子回路を授業でやりました。
やってるときは「電子回路やりたいんじゃないんだよな…。」と、何の役に立つのかさっぱり分かりませんでしたが、時を経て専門学校の卒業間際の卒業制作チームで「シリアルポートの信号を受け取ってON/OFFする方法が必要」となった時に誰も知らない電子回路を唯一やったことがある私がチームに貢献できました。
このとき初めて「学校の授業は役に立つこともあるんだな。」と実感しました。
こんなもんです。

いま勤しんでいる勉強が役に立つかどうか、を決めるのは未来の自分です。いま勉強をしている自分ではないのです。
未来の自分を助けると思って今の勉強に身を入れるのは決して無駄にはなりません。

ようやく表題に立ち返り話をまとめますと、

能動的に学ぶ(実践する)ことが一番身につきます。

この能動的に学ぶ、ということを欲しているに置き換えると、
 知識を欲しているか
 恋愛を欲しているか
の違いです。
受験に向かって勉強できる人は、学問を能動的に学ぶことができているという状態といえます。
恋愛に走っている人は、人間(として深みを持たせる)を能動的に学ぶことができているといえます。
可視化できるか、可視化できないか、の差はありますが、どちらにしろ本人を形成する礎にはなっています。
この2択が存在している前提で、、、
サポーターの立場からすれば、可視化できる能力=知識=学歴を備えることを推奨したくなります。可視化できない価値は本人にしか分かりませんから。
本人からすれば、可視化できるかどうかよりも、自分の価値観がより高いほうを選択したくなります。可視化できない価値でも本人のモノサシで測れば価値観は第三者と変わります。

実際に色恋沙汰で身を滅ぼす人も世の中にはたくさんいますから、本人の価値観がすべて正しいとは限りませんが、第三者が本人の価値観を変える・ネジ曲げる、というのは無理があります。

人生において成功している・幸せである、人々は「後悔しないで生きている」傾向から考えても、成功/失敗に関わらず「後悔しないかどうか」が究極なんではないでしょうかね?と私なんかは思ってしまいます。
つまり、恋愛で受験に失敗した、恋愛も受験も失敗した、としても、やらずに後悔する人生よりはやって失敗したことが未来への投資となっていればそれは人生として成功していると言えませんか?と考えました。

合格する価値に重きを置く価値観も正しいですし、受験に合格すること以外の部分に重きを置いた価値観も人生においては正しい、と言えます。自分の人生をどうしたいかによって、"いま何を成し遂げなければならないか"ですよね。
ご意見は人の数だけいろいろとあると思いますので、なにがいいかも人の数だけ、答えも人の数だけある問題を、画一的に正解を出すほうが無理がある、というものです。

正解がない出題の方が多い人生において、○×つける意味はありませんね。
この記事すらも、すべてに賛同する必要は全くないのです。
ただし、自分が共感できた部分については「(読み手である)私の考え方が言語化(文字に)されている。」という点において、読み手の価値となります。共感できた部分はぜひともこの件についての自分の考え方はこうだった、という認識(気づき)にご利用ください。

…しまった。最後でふわっとした結論になってしまいました。
申し訳ありません。